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店長のプロフィール パート1
rinc。からのその他お知らせ トピックスエステティックサロン・リンクの店長で株式会社リンク 代表取締役の わたなべ紀子 50代半ば独身です!!(笑)
山口市内にサロンを構えて2023年の7月で12年になりました。
これまでずっとビルイン型店舗で営業しておりましたが、このコロナ禍に銀行から大借金して(笑)独立型サロンを建てて、2022年5月14日に無事グランドオープンし新しくスタートさせることが出来ました!!
私が言うのも何ですが、半世紀越えたエステティシャンが家と同じようなお金かけてサロン建てるなんて、いつくたばるかも分からないのに銀行もよく融資OKしてくれましたよね!?
でも建てたからにはそりゃもう馬車馬のように働いて、これからガンバッて借金を返さなきゃですからまだまだ死ねない訳ですよ笑笑
そのためには先ず私がどんな人間でどのような経歴を持っているのかをご説明して、私自身を知って頂くために自己紹介からいたしますね。
20代前半から後半まで勤めていた金融機関を辞めて、この美容業界に飛び込んだのが28歳の頃です。
そのきっかけを作ってくれたのが金融機関で働いてたときの美人な先輩で、その頃の私と言ったらポッチャリ体型にニキビ肌と美容の世界から一番遠いとこにいるような人間でした。
それがその先輩からのちょっとした一言がきっかけで、ここまで大きく人生が変わってしまうなんてお釈迦様でも思うまいって話です。
美人な先輩はスタイルもめちゃめちゃ良くてモテモテで、後輩の私にもすっごく優しくて当時の私はすごく憧れてました♡
お友達の交友関係も広くて、色んな業種の方と仲良しで羨ましかったのを覚えています。
そのうちの一人の女性がフェイシャル専門のエステサロンを開業されたそうで、あるとき先輩からこんなお願いをされたのです。
「渡邉ちゃ~ん、友達のフェイシャルサロンに練習台としてお顔貸してあげて欲しいんだけど。すごく気持ちイイし、お肌もモチモチになるよ♪もしかしたらそのニキビも良くなるかもしれないよ?」と。
そのフェイシャル専門のサロンとは、そこで扱っている化粧品一式を自宅用で買い揃えて、尚且つサロンにキープ用としても買わなければならない所謂販売員さんにコミッションとして歩合が入る類のサロンです。
当時の私は美容やエステに関して右も左も何も解らない小娘ですから、憧れの大好きな先輩からそう言われたらそりゃ一も二も無く即答しますよね!
そしてニキビが治ると上手いこと諭されてまんまとそこの化粧品を買わされて、せっせと通った訳です。
そんなある日、そのエステティシャンから痩身エステをやってるお友達が無料モニターをやってくれる人を探してるので、渡邉さんやってみませんか?と勧められ、小娘は無料と聞いてこれまた飛びつくようにそのエステに行くわけですよw
行ってカウンセリングを受けてから知らされるのですが、無料とは技術料が無料なだけでそのお手入れに掛かる商材(オイルなど)や置き換えダイエット食の費用は掛かること、そしてそれが決してお求め安い金額ではないということ。
それでもその当時の私は通えば痩せれると信じて、ローンを組んでまんまと契約してしまうんですね~(笑)
通っている間に塗ったら痩せると言われるクリームや、着たら痩せれると言う補正下着など次から次に勧められるものはほぼ全て購入し、サロン側から見たらもはや私は「カモネギ状態」だったかと(爆笑)
半年くらい過ぎた頃にはそれなりに体重も落ちてニキビも少し落ち着いてきましたが、今思えばそれは健康食品による食事制限が功を制したもので、単に食欲を抑えた己の我慢強さが成した結果ではないかと…(とにかく何が正解だったのかは判りません笑)
そんなことはさておき、その痩身エステのエステティシャンから今度は知り合いのエステ会社を経営している社長さんが、クレジット関係を担当してくれる事務経験のある人を探してるとういう話が舞い込んできたのです。
折しも勤めていた金融会社を辞めようかどうしようか悩んでいた時で、その話を聞いてからもう心は決まってました。
直ぐに面接に行った記憶があります。
それからほどなくして、そのエステの会社の信販担当の事務員として働くことになりました。この会社に入社したことがきっかけで、私のエステティシャンとしての人生がスタートしたと言って良いでしょう。
だって事務員で入社したのに何でかエステの知識と技術の勉強をさせられ、事務の仕事が空いてる時はサロンの方に出さされてスタッフのサポートとして一緒にお手入れに入らされたり、時には一人でお手入れを全部任されたりとやってることはエステティシャンでしたもんね(苦笑)
とどめは社長ではなく会長から直々に、『渡邉は事務をやるよりエステティシャンの方が向いてるな』と言われたのが決め手でした。
この私がエステティシャンに!?マジですかッ!!(当時のエステティシャンは花形職業的存在だったので衝撃だったのです♡)
ニキビ肌でぽっちゃりでコンプレックスだらけの私でしたが、エステのお陰なのか使ってた化粧品のお陰なのか、はたまた飲んでたサプリや健康食品が効いたのか分かりませんが、ニキビ肌はいつの間にか改善されて身体もそれまでより体重が落ちて少し痩せていました(^^♪
自分に少し自信が持てるようになったからでしょうか?
入社ほどなくして本社の事務所ではなく、エステティシャンとしてサロンの現場に出勤することになっていました笑
ここまでが私がエステティシャンになった経緯ですが、ここからはエステティシャンとしての波乱万丈な人生をお話ししましょう。(波乱爆笑の方がしっくりくるかもですがw)
そのエステの会社は今でこそ全国に40店舗くらい展開してますが、当時はまだそこまで大きくはありませんでした。
お店を売りたい(手放したい)とお考えの個人サロンのオーナーさんから、お店とお客様とそこで働いていたスタッフを丸ごと買い取って、自社の傘下に入れて店舗数を増やしていく手法ですが、その際に元々いたスタッフを育成するために自社の社員を送り込みます。
しかし社員を投入する一番の目的は、そこのお客様から新たに自社のコースを契約して貰い売り上げを作ることにあります。
かく言う私もその目的で、淡路島にある個人サロンを買い取ったので行かされました。
高校を卒業して一度専門学校で上京するのに山口を離れましたが、帰郷して社会人になってから再び山口を離れたのはこの時です。
そしてこれ以降山口に戻ってくることは、盆正月の一時帰省以外ありませんでした。
上記にも書いたやり方で会社はどんどん店舗を増やし、淡路のお店の次は秋田県の秋田店と大曲店、横手店をまとめる「店長」として移動しました。
冬はサロンの駐車場でこれまで見たこともないぶっとい(太い)氷柱(つらら)を見ることに。そして停めてたお客様の車のフロントガラスに落ちて、氷柱がぶっ刺さるという事件勃発!!
秋田に一年くらい赴任して次に北海道は札幌、岩見沢に滝川とどんどん寒い地域に移動になり、母親に電話で「あんたはアザラシの脱毛でもしよるんかね?もうこの次はカムチャッカ半島やね」と笑いながら言われたのを今でも覚えています。
北海道の冬を体験したときに、雪って上から降るんじゃなくて下から巻き上げてくるんだってことを知りました。
滝川市は『北海道のへそ』と言われるように丁度真ん中あたりの場所にあるのですが、ここの冬は原色と言ったら信号機の赤青黄色くらいしか見当たらない、本当に白一色の世界なんですよ。
真冬の札幌の繁華街すすき野の交差点に至っては、テッカテカに凍った横断歩道で前を歩く人が滑って転んだら、その後ろを歩いていた人が順番につられてコケるという、正に人間ドミノ倒しを目の当たりにしたことも(笑)
ホントに今思えば、違う意味で北海道を満喫させて貰いましたw
そしてその時代脱毛と言えば、電気針を使用したニードル(針)電機脱毛が主流でして、今のような光脱毛は普及されていませんでした。
今でこそ脱毛はとんでもない破格で恐ろしいくらい安くなってますが、その時代はエステの稼ぎ頭メニューと言って良いほど脱毛は高額だったのです。
私の勤めていた会社も電気脱毛による部位別のご契約金額が太く、看板メニューのアーユルヴェーダを差し置いて一番売り上げに貢献していたと思います。
しかしながらこれまで無謀に店舗拡張を行ってきたツケが回ってきたのか、勢いだけで居ぬきのサロンを買収してきたのが仇になったのか、会社が危うい状況に追い込まれてしまいました・・・!!
売上金だけでは会社が回らなくなり、社員の給料が遅れ始めたのです。
私達管理職の店長の給料だけならまだしもその下の主任やチーフ、終いには入ってきて間もない社員の給料までもが遅れるようになったので、せっかく入社したスタッフも短いスパンで辞めてしまいます。
流石に理由が理由なだけに、辞めていく者を止めることは出来ません。
実際私たちもお給料が遅れて生活が厳しくなり、実家の親に助けて貰ったりと何とか生活を保ってた状況で、正直親からは会社を辞めて実家に戻ってきたらと言われたこともありました。
その頃の私は胃に穴が開きそうなくらい、毎日胃がキリキリと痛み心痛で夜も眠れない日が続きました。
病院に行ったら胃潰瘍の一歩手前で、危うくヘリコバクターピロリ菌のブリーダーになるところでした(;^ω^)
そんな暗雲立ち込める経営状況から起死回生を図ったのが、今やエステの脱毛と言えばコレッ、光脱毛機への切り替えだったのです!!
部長クラスの人間は勿論、マネージャー職や店長クラスの人間までもが全国飛び回り、光脱毛の技術を指導に当たり電気脱毛から光脱毛への切り替えに伴う追加契約をお客様から頂くよう、スタッフ指導を徹底していきました。
それまで電気脱毛で散々高額の契約を頂いていたにも関わらず、更に追加で頂くのですから酷い話ですよね・・・
それでもそのことがあったから、会社は何とか破綻せずに継続していけたのだと思います。
こうして少しずつ売り上げを戻していき会社は安定していきました。
お給料も遅れていた分がちょっとずつ追い付き、親にも返して(全額返したかはもう覚えていませんが笑)安心して貰えることに。
福島県郡山市といわき市のサロンを管轄する頃には、いつしか店長から「マネージャー」という役職になっていました。
郡山といわきを行ったり来たりして、結構忙しく働いてましたね。
2年くらい福島を担当したでしょうか?いよいよそのエステ会社の大元、美容の卸し会社があるお膝元の東京に移動です。
私の人生に於いて、まさか銀座で働くなんて思いもしませんでした!!
東京転勤で最初に配属されたのが、東銀座にあるエステサロンだったのです。東銀座の歌舞伎座の直ぐ近くにあるサロンでした。
そのエステの会社の大元である美容の卸し会社は、池袋に本社を構え千葉の木更津市に製造窯や修理工場を持っていました。私がフットワークが軽く、どこでも直ぐに動けていたからでしょうか?
時々現場を離れて千葉の工場まで出張して、そこにいる工場長と美容機器のことで本社に出向いては会長の小言を聞かされていました笑
六本木のミッドタウンの側にある脱毛専門店を買い取ることになったとき、そこで店長をしていた女性から脱毛のことを更に深く勉強させて貰い、脱毛機のメーカーの方と繋いで貰って脱毛の仕組みと光脱毛機のことを勉強する機会を与えて貰いました。
この時にエステティシャンでは知る由もない、エンジニアしか知らないマシーンの中の基盤や熱のジュールを測定して、機械のスペックを測る方法を教えて貰ったのです。
池袋にある美容の卸し会社の方に配属になってからは現場ではなくインストラクターとして、エステティシャンにアーユルヴェーダの手技やフェイシャルの技術を教えたり、美容機器の仕入れに関する仕事を任され中国から輸入した脱毛機の取扱説明書を作成する仕事をしていました。
この続きは次回に(。・ω・)ノ゙